先輩の声

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東京本社報道局科学医療部(医療) 武田 耕太 文学部新聞学科卒 1999年入社

Profile

出身:宮城県
宮城県石巻市。震災を経験することになりましたが、控えめな優しさと魚のおいしさは変わりません

中・高・大のブカツ&サークル:
中学 / 陸上競技部
高校 / 陸上競技部

ひとこと:ある意味、「負ける」ことに慣れた

職歴・キャリア

1999年4月:入社

同年:大津支局

2002年9月:広島支局

2004年9月:生活部 厚生労働省担当

2010年4月:西部報道センター(社会部)

2011年9月:編集センター

2012年9月:科学医療部

入社動機

働く自分の姿をどうしてもイメージできない、情けない学生でした。様々な業種の会社説明会に行くたびに「何かが違う」と違和感。自己PRも苦手でどうしたものか。ただ、書くことは比較的好きでした。最終的には、ダメな自分だからこそ気づき、書けることもあるのではないか、と思うに至り、新聞社を受けることにしました。

オフの過ごし方

人の健康を応援する記事を書く記者の端くれでもあり、入社当時から、ランニングは途中やめたりする期間を経ながらも、ずっと続いています。2年ほど前に、ハーフマラソンまでは挑戦しました。15キロ過ぎから目の前がぼんやりしてきてどうなるかと思いましたが、なんとか完走。タイムは恥ずかしくて言えません。フルマラソンはこの倍かと思うと気が遠くなります。走りきれる人を心底尊敬しました。

座右の銘・好きな言葉

「虚勢は張らない」

新入部員にひとこと

社会人になるための多少の努力は必要ですが、新聞記者は基本的に素の自分で勝負できる、いい仕事だと思います。

生命の誕生から死まで。人の一生にかかわるテーマの最先端を取材

現在の仕事:医療・健康の記事全般を担当、役立つ情報を収集して形に

科学医療部は原発、環境、宇宙、化学、物理、医療など幅広いテーマを抱えています。そのなかで、私が担当しているのは医療や健康の記事全般です。

医療や健康は、生命の誕生から死を迎えるまで、人生のすべてにおいてかかわってくる身近なテーマ。思いがけず病気になったり、家族の病気で生活が一変したり。ほとんどのことは自分や自分の家族にも起こりうることともいえます。そんな身近なテーマですが、それを支えているのは、医師や看護師、患者など多くの人や、どんな治療法がいま一番いいのかなどを探る研究です。そんな人たちに直接話を聞いたり、ひとつひとつ勉強したりしながら、どんな内容の記事ならば読者に役立つのかを考え、形にしていく作業は、大変なことも多いですが、楽しいものです。

私自身は文系で、理系科目は高校の時点で挫折したタイプ。まさかこうしたテーマで記事を書く仕事をするとは想像していませんでしたが、この年齢になっても新たな発見をもらえる日々をありがたく感じています。

印象に残っていること:何のために書くのか、という信念がなければ人の心は動かない

病気と向き合う患者や家族の記事を担当したときのこと。テーマは子どもの病気。本人と母親には取材ができて、お話を聞けたのですが、父親からはなかなか聞けませんでした。

話すのが嫌ならば仕方ない、無理にお願いしてはいけないと思いました。取材することでその人の気持ちを傷つけることになるのでは、という不安もありました。

そんな気持ちをにじませながら、「最後にもう一度」という「ダメでもともと」の感覚で、取材のお願いのメールを送りました。私としては、お願いはしたいこと。一方で、あまり負担になるようならば、無理をお願いはできない。そんな内容だったと思います。すると、怒りに満ちた返事が返ってきました。怒りの原因は、私のしつこさではなく、「ダメでもともと」感覚のほうでした。家族の大事な話を書くのに、あなたはそれぐらいの覚悟なのか。何のために取材して書こうとしているのか――。文中から、そんな怒り、憤りがにじみ出ていました。

人を取材するときに当然あるべき信念や覚悟のようなものがないことは許されない。そう思い知らされた出来事でした。その後、話し合いをさせていただき、取材もできましたが、思い出す度に後悔と反省の気持ちが浮かんできます。

仕事上のモットー:目には見えない本質や人の心を思う「想像力」をもつ

「想像力」ということを心がけています。

入社3年目のころ、ある薬害の裁判を担当しました。国や製薬会社の責任を追及する集団訴訟で、裁判の間にも多くの被害者が亡くなっていきました。

最終的に国は確認書に「おわび」を明記し、和解に至りました。当時、被害者の家族は「国に一言、責任を認めてほしい」と、必死に闘っていました。その結果の和解。歓喜にわく原告団を見て「勝利の和解」と書きました。入社当時から追いかけていたテーマのひとつの終着点と、達成感がありました。

しばらくたってから、遺族の一人を訪ねました。「むなしさと闘っている」と涙をこぼしました。どんなに頑張っても家族は戻ってこない。和解でよかったのか、聞くこともできない。これが求めていたものだったのか。声は震えていました。

報道のピークを過ぎた後、その人に訪れた時間を想像できずにいた自分に失望しました。本質は、自分の目に見えているものだけなのか。人は自分以外のほかの誰かにはなれない。だからこそ、いつも想像する力を持たなければ、と思っています。

これから:書いてよかったと思える記事1本でも多く。外国語習得の努力もしたい

基本的にこれといった野心はありません。一本でも多く、自分なりに書いてよかったと思える記事を書くことが目標です。

そんなこと、記者なんだから当たり前じゃないか、と私も思います。でも、実際、満足する記事を書くことは難しいです。入社前はもっと簡単なものだと思っていました。ひとつひとつの出会いや取材を大切に、丁寧に積み重ねていかなければ、と思います。

これとは別に、語学がもっとできれば、取材や書ける記事の幅は広がるのではないか、という思いはあります。ちょこちょこ勉強はしてみるのですが、怠け癖が抜けず、いまに至ります。

数年前に大流行した新型インフルエンザの取材を担当したとき、国境を超えてウイルスが行き来する感染症に対し、日本語の感覚、ドメスティックな感性のままの自分ではついて行けない部分がある、と痛感しました。

もう少し努力します。

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